小田原潔さんの人物像をたどると、国会での肩書きとは少し違う景色が見えてきます。自衛官の家庭で過ごした子ども時代、父の留学に伴う米国生活、宇宙物理への強い憧れ、そして長く続けてきたトライアスロン。ひとつの分野だけでは収まらない好奇心と行動の積み重ねがあります。
家族との関係も、小田原さんの人生の節目に何度か登場します。とくに2011年の東日本大震災後、被災地へ向かう決断を後押ししたのは妻でした。ここでは、家族、家庭のルーツ、若い頃、趣味、友人との付き合い、本人が大切にしている言葉などから、小田原潔さんの素顔を見ていきます。
- 妻と一男一女の4人家族。東日本大震災後に被災地へ向かう決断を妻が後押しし、その経験は著書にもつながった。
- 自衛官の家庭で育ち、小学生時代には父の留学に伴って米国でも生活。幼い頃から複数の土地を行き来した。
- 趣味はトライアスロンとエッセイ執筆。25年来の友人を仕事でも頼るなど、長い人間関係を大切にしてきたことを本人が公表している。
小田原潔の家族構成
妻と一男一女の4人家族
小田原さんの公式プロフィールには、家族として元自衛官の父、宇佐神宮神官家系の母、妻、一男一女が記されています。本人の公式サイトでも日野市在住の「二児の父」と紹介されており、妻と息子、娘がいる家庭であることが分かります。
妻が表舞台に頻繁に登場するわけではありませんが、小田原さん自身の言葉の中には、人生の大きな決断に関わった場面が残っています。その一つが、東日本大震災直後の行動でした。
妻の後押しで被災地へ向かった
2011年3月、小田原さんはまだ国会議員になる前でした。震災発生後、テレビで被災地の状況を見続けるうちに、「健康な成人男子がテレビを見ているだけでいいのか」という思いが強くなったと振り返っています。
そこで、東北自動車道が再開通した翌日に車で東北へ向かいました。行き先を探しながらたどり着いたのが宮城県七ヶ浜町です。テント生活をしながら、ヘドロのかき出しや壊れた家財の運び出しなどを続けました。その出発を支えた一言として本人が挙げているのが、妻からの後押しです。
「女房の後押しもあって」
出典:Colorful democracy「政治家に話を聞いてみよう!~小田原潔衆議院議員編~」(2021年3月7日)
このときの活動は一度きりではなく、七ヶ浜町で1年以上続きました。妻の一言が、のちに著書へまとめるほど長い活動へ踏み出す最初のきっかけになっています。
小田原潔の実家と家族のルーツ
元自衛官の父と宇佐神宮神官家系の母
父は元自衛官、母は大分県宇佐市にある宇佐神宮の神官家系の出身です。小田原さん自身も大分県宇佐市で生まれましたが、家庭生活の中心は父の勤務に伴って移り変わりました。
本人は子ども時代を「自衛隊官舎で育った」と記しています。父の仕事には有事の危険が伴うことを、家族として幼いころから意識していたそうです。家庭の中で父の仕事を身近に感じていたことが、小学生のころから社会の出来事へ目を向ける背景の一つになりました。
2026年9月、防衛副大臣として着任した際には、本人のXで「父が34年前に下りた市ヶ谷台の坂を本日私が上り」と振り返っています。父が退官式を行った場所で自分が着任式典に臨んだことを、家族の記憶と重ねて書いた投稿です。
転居の多い小学生時代を過ごした
父の勤務に伴い、小学生のころは住む場所も何度か変わりました。目黒区立東山小学校に入学した後、宇都宮市立雀宮南小学校へ転校し、その後は練馬区立北町小学校へ。さらに途中には父の留学による米国生活もありました。
同じ地域で小学校6年間を過ごす生活とはかなり違います。東京、宇都宮、米国と環境が変わるなかで育ち、帰省先には両親の故郷である大分がありました。幼いころから複数の土地を行き来する生活が身近だったことになります。
両親の故郷・大分には毎年帰省
両親はともに大分県の出身です。小田原さんは、父方と母方、それぞれの祖父母のもとへ毎年帰省していたと書いています。暮らした場所は東京などに移っても、家族のルーツとしての大分とのつながりは子どものころから続いていました。
大分は「生まれた県」というだけではなく、祖父母に会いに繰り返し帰る場所でもありました。成人後、政治の世界へ進もうとした時期にも大分で活動した経験がありますが、その前から家族単位で長く行き来してきた土地でした。
小田原潔の若い頃と学生時代
小学校4~5年生はアメリカで生活
小学生のころには、父の留学に伴って家族でアメリカへ渡りました。父は米国陸軍指揮幕僚大学で学び、小田原さんも小学校4~5年生の時期を米国で過ごしています。
子どもの時期に身につけた英語は、その後の仕事選びにもつながりました。大学卒業後に海外拠点の多い銀行を選び、入行2年目にはニューヨーク支店で働くことになります。幼いころの海外生活が、大人になって再び海外へ向かう土台になりました。
模試D判定が続いても東京大学を目指した
高校生のころは東京大学を志望していましたが、模擬試験ではD判定が続いたといいます。それでも志望を変えず、猛勉強を重ねて現役で合格しました。本人が学生時代を語るとき、合格という結果だけでなく、D判定が続いていた時期もあわせて話しています。
16歳で憧れたのは宇宙物理学者
高校時代、小田原さんの心を強くつかんだのが宇宙でした。16歳のころ、天文学者カール・セーガンの『コスモス』とテレビ番組に触れ、宇宙物理学者という仕事に魅せられます。
「僕、実は宇宙物理学者になりたいと思っていたこともあるんです。」
出典:Colorful democracy「政治家に話を聞いてみよう!~小田原潔衆議院議員編~」(2021年3月7日)
理系科目も勉強していましたが、自分より才能のある人たちを見て、科学者の道ではなく別の進路を選びました。ただ、興味そのものを手放したわけではありません。大人になってからも宇宙に関する本や学説の要約を読むと話しており、16歳の好奇心が長く残っているところは印象的です。
ニューヨーク勤務で気づいた「仕事の面白さ」
富士銀行に入り、念願だった海外勤務でニューヨークへ。ところが、実際に仕事を始めると、本人の感想はかなり率直でした。
「仕事はめちゃくちゃつまんなかったです。」
出典:Colorful democracy「政治家に話を聞いてみよう!~小田原潔衆議院議員編~」(2021年3月7日)
ニューヨークで外資系投資銀行の仕事に触れ、そちらの方が面白そうだと感じたことが転職のきっかけになりました。銀行に約10年勤めた後、外資系金融へ移っています。最初に選んだ仕事へそのまま収まるのではなく、自分が面白いと感じる方向へ軌道修正した時期でした。
小田原潔の趣味・好きなもの
趣味はトライアスロンとエッセイ執筆
公式プロフィールに挙げている趣味は、トライアスロンとエッセイ執筆です。自民党の候補者プロフィールでは「好きなもの・こと」として多摩川沿いのランニングも挙げています。
トライアスロンは単なるプロフィール欄の一語にとどまりません。2026年には東京都トライアスロン連合の名誉副会長、トライアスロンジャパンの顧問に名前が掲載されており、競技との関わりが長く続いています。泳ぐ・自転車に乗る・走るという三つの種目をつなぐ競技を、長年の趣味としてきました。
尊敬する人物は陸奥宗光
公式プロフィールで「尊敬する人」として挙げているのは、明治期に外務大臣を務めた陸奥宗光です。趣味や好きなこととは少し種類が違いますが、小田原さんが人物として明確に名前を挙げている数少ない存在です。
ボランティア経験を一冊の本にした
もう一つの趣味である執筆は、実際の著書にもつながっています。『ヒトのチカラ。―東日本大震災被災地、災害ボランティアセンターで起こったいくつものドラマ。ボランティアって何するの?』は、七ヶ浜町での経験をもとにした一冊です。公式プロフィールでは、震災から150日ほどの時期の現地を背景に、災害ボランティアセンターで起きた出来事や、現地で役立つために知っておきたいことをまとめたノンフィクションとして紹介されています。自分の体験を記録し、次に現地へ向かう人のための情報へ変えた本でした。
体を動かすトライアスロンと、経験や考えを言葉にする執筆。一見かなり違う趣味ですが、小田原さんの場合はどちらも短期的な気分転換というより、長く続けて形にしてきた活動になっています。
小田原潔の友人・人間関係
25年来の友人に「そばにいてほしい」と頼んだ
小田原さんの人間関係で目を引くのが、長い付き合いの友人を仕事でも頼ったエピソードです。神野次郎さんについて、本人は公式ブログでこう書いています。
「神野は私の25年来の友人です。」
出典:小田原きよし公式ブログ「小田原きよしの友人・第1秘書神野次郎さんが昭島市から都議会議員選挙に出馬します。」(公開日記載なし)
神野さんは、小田原さんが東京21区の支部長になったころから選挙活動を支え、当選後は公設第一秘書になりました。小田原さんは、当選後に「まるでプロポーズをするように」引き続きそばにいてほしいと頼んだと振り返っています。長年の友人へ仕事上の大きな役割を任せた関係でした。
銀行時代の後輩とはカラオケと飲み会
金融マン時代の付き合いも続いています。富士銀行池袋支店時代の後輩・渡辺渉さんと久しぶりに会った日のブログでは、若手行員とよくカラオケへ行っていた思い出を紹介しています。
再会した日は、渡辺さんなじみの焼き鳥店から、小田原さんなじみのカレーバーへ。仕事の肩書きより、昔の同僚同士の夜という雰囲気が伝わる記録です。
「お互い変わらない人柄を確かめ合って、痛飲しました。」
出典:小田原きよし公式ブログ「10年ぶりの再会」(公開日記載なし)
選挙や政策ではなく、昔の仲間と食事をして、カラオケの思い出を語る。こうした話は、金融機関で働いていたころの小田原さんを知る手がかりになります。
小田原潔の性格・人柄と私生活
ボランティアは「黙って行動するもの」
七ヶ浜町での活動について、小田原さんは「ボランティアは本来、黙って行って、黙って働いて、黙って帰ってくるべきだ」と話しています。そのため、当時の活動について普段はあまり話さないとも説明していました。
2020年の国会質疑でも、震災から約9年を経て当時の経験を振り返り、東北自動車道が再開通した翌日に単身で被災地へ向かった経緯を説明しています。時間がたっても、七ヶ浜町での経験は本人にとって大きな出来事として残っています。
座右の銘は「我未だ木鶏たりえず」
公式サイトで掲げている座右の銘は、「我未だ木鶏たりえず」です。「木鶏」は、周囲の刺激にすぐ反応せず、木で作った鶏のように落ち着いた境地を表す故事に由来する言葉です。
一方、自分自身へ「常に言い聞かせている」と紹介した言葉には、もっと前へ進む響きがあります。
「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」
出典:政治山「第5回 政治の力強さに感銘~私が政治家を志した理由~」(2013年4月19日)
落ち着きを求める座右の銘と、自分を前へ動かすための言葉。方向は少し違いますが、どちらも本人が長く意識してきた言葉です。
2021年の自民党候補者プロフィールでは、「苦手なもの・こと」の欄に「諦めること」と記していました。高校時代のD判定、仕事を変えた経験、長期のボランティアなどとは別に、本人が自己紹介として選んだ短い言葉です。
小田原潔の意外な一面
外交の場で飛び出したポケモンの話
少し意外なのが、2022年3月のチリ訪問時に生まれたポケモンをめぐるやり取りです。現地の式典に出席した際、チリの内相イシキア・シチェス氏との写真を投稿し、感謝の気持ちとしてポケモンを贈るなら「どれが好きですか」と問いかけました。
硬い外交日程の合間に、世界的に知られたキャラクターを会話のきっかけにした一場面でした。ポケモンの好みを尋ねる本人の投稿が、そのまま記録として残っています。
自衛官の家庭で育った子ども時代から、宇宙への好奇心、海外生活、金融の仕事、トライアスロン、執筆、長い友人関係まで、小田原さんの私生活に近いエピソードはかなり幅があります。宇宙への関心やトライアスロンのように、若い頃から長く続いているものも複数あります。
小田原潔氏の「本人の言葉」から素顔を見る
家族や学生時代、趣味、価値観などについて、 本人が実際に語った言葉から、 人物像をさらに詳しく見ていきます。
30年以上続くモスバーガーへのこだわり
なぜかモス歴30年超の妙なプライドが許さない。
小田原氏は中学生の頃から親しんだモスバーガーについて、ソースまで上手に食べ切る独自のこだわりをユーモラスに書いています。
夜遅い訪問先で受けたもてなし
きっと、これも究極のコミュニケーションなのだろう。
小田原氏は大分県内を回った際、夜遅く訪ねた家庭で食事を振る舞われた経験を、人と親近感を育むコミュニケーションとして振り返っています。
温泉街を訪ねて抱いた素直な願い
今度はこんなバタバタではなく一軒一軒泊まり歩いてゆっくり温泉に入りに来たい。
小田原氏は玖珠・九重の温泉街を訪ねた際、仕事で慌ただしく回るのではなく、いつかゆっくり温泉を楽しみたいという本音を記しています。
- 政治山 記事本文で参照
- note記事 記事本文で参照
- Amebaブログ 記事本文で参照
- Amebaブログ 記事本文で参照
- 小田原潔に関するYouTube動画 記事本文で参照
- 小田原潔に関するX投稿 記事本文で参照













































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